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「島根が大嫌いだった私が、島根を大好きになった」
「ルーツしまね」とは、島根にゆかりのある大学生、若手社会人が島根と繋がり続けるために、一人ひとりにとっての最適で多様な関わりを提供する、学生を中心にしたコミュニティです。
マガジンでは、島根に関わりを持つ大学生や若手社会人に向けて様々な切り口からインタビューをしていきます。どのような想いで島根と関わり続けてきたのかというライフストーリーをじっくり丁寧に聴いてみました。
インタビュー1人目は、石倉ももこさん。
Q東京への憧れはいつから?なぜ、そう思ったんですか?
小学3年生の時から、東京への憧れを持っていた母の影響や初めて東京に行ったことをきっかけに、「私は島根にいるべきではない。いつか絶対東京で暮らす」と思っていました。
お爺ちゃんとお父さんが中央大学を卒業していて、3代連続で行くと名誉ファミリーとして表彰されるという機会があって、お爺ちゃんやお父さんのために、私も島根から中央大学に行くんだと思っていました(物心ついた時から、決心していたのかも…)そんなふうに、親の発言や経験に憧れ、自分の生きる道標にしていました。両親も東京に住んでいた経験があり、都会への抵抗感は一切なく、むしろいい場所だと思って東京で住みたいという気持ちがありました。実は高校受験のタイミングで、一度東京に行こうと思って受験しました。そのときは受験に失敗し、島根の高校に進学したのですが、あと3年間も島根で過ごさないといけないか、、という気持ちがありました。ただ、高校1年生のときに、今の学力のままだと中央大学に行けないということに気づいてしまいました。
それから私の生活は一変し、15時に帰宅して16時から夜ご飯やお風呂などを済ませるといったん寝て、そして夜0時に起きて朝まで勉強して学校に行くみたいな生活を始めるようになりました。すると、学力が上がって、勉強が楽しいと思うようになって。これはもしかしたらチャンスがあるかもしれないと思いながらも、私にとって中央大学は高い目標のままでした。そして、高校2年生の時、別のクラスの先生が中央大学出身であることを隣のクラスの友達に教えてもらい、話を聞きにいきました。初めて話したにもかかわらず、すごく応援してくださり、先生に進路相談や受験対策に付き合っていただき指定校推薦で中央大学に入りました。当時は、東京に行きたい、中央大学に行きたい、ただそれだけの思いしかなかったので、島根には二度と帰らないと思っていました。
Qなぜ、石倉さんはそこまで島根が嫌だったのですか?
単純に、私にとっての東京は完全に現実逃避の場だったのかもしれません。小学3年生の頃から夏休みは毎年東京で過ごしていて、キラキラしたもの、食べたことのないものもたくさんあって、いろんな新しいものにあふれている土地に憧れがあったと思います。日常を淡々と過ごす島根での生活とは大きなギャップがあったし、島根では都会のように遊ぶことができないと思っていました。東京は、新しいものが増えていくサイクルが早いし、食べ物、美術館、ファッションも含め目にするものすべてが最先端で、島根では手に入らないものをたくさん手に入れて帰る場所だと思っていました。東京は進んでいて、島根は遅れている場所とすごく感じていました。
Q夢の東京での大学生活はどうでしたか?
東京進学が決まった時は、「ついに私の夢叶った」と思いましたね。11月に合格が決まって、そこからの半年間はすごく楽しくて、「島根での暮らしは最後だから!」と思って過ごしていました(笑)東京に上京して入学してからも、同じ指定校推薦で入った友達がもともといたので、すごく楽しんでいたと思います。大学1、2年生の時は、授業やサークルなど大学の中で過ごす選択肢しかなかったので、大学外に出て活動するといった考えはありませんでした。とにかく、大学に入学したらサークル入ろうと思い、テニスサークルと陸上同好会に入りました。それと、ずっと箱根駅伝が好きだったこともあって応援団にも入りました。学ランを着ているリーダーと、チアリーダーと、ブラスバンドで構成されていて、私はブラスをやっていたので、大学2年生までは明治神宮に行って野球の応援をしたり、箱根駅伝のとき大手町で演奏をしたりしていました。応援団はとても忙しくて、月・木曜日は練習、火・水曜日は野球応援、金曜日が唯一の休みで、土日は準硬式野球とかサッカー、ラグビーの応援にいって、授業出れないような日々も続いていました。2年生の夏頃から、私は部活のために大学に入ったんだろうかと思うようになっていました。その時期に部長決めも行う時期にもなり、ここで区切りをつけようと2年生の夏で部活もサークルもやめました。
Q周りはサークルやバイトをしている中で、石倉さんは部活やサークルだけをするために大学に入ったわけではないという悶々とした気持ちがあったと思うんです。大学2年生の夏以降で石倉さんの中でなにか転機となるものはありましたか?
部活をやめてから一気に暇になりました。辞めたタイミングは夏休みだから授業もなくて、これまでは元日は箱根駅伝などの応援で東京にいないといけなくて、島根に帰省できる期間も2泊3日くらいの短期間でした。だからこの機会にゆっくり島根に帰ろうと思って帰りました。帰省してからは地元の友達に会って話をしたり、キャンプをしたりして楽しい時間を過ごしました。帰省の最終日に、母から「こういうの行ってみたら?」と言って渡されたのが、ふるさと島根定住財団のダイレクトメールでした。島根にゆかりのある20〜30代の若手社会人の座談会を東京で開催するという内容で、東京に帰ったら部活もないので暇だし、帰ってすぐ開催されるとのことだったので行ってみようかなという気軽な感じで行ってみたのが大きな転機になりました。
実際に行ってみると、県外出身で島根にIターン就職した人や島根出身だけど県外で就職している人、島根大学出身で県外で就職したけど島根にまた帰りたいと思っている人など、20代前半〜後半の若い人たちが4人くらい登壇してトークセッションを行うという企画でした。そこで、衝撃だったのは、企画担当していた田中輝美さんと、ふるさと島根定住財団の原さんという方との出会いでした。2人とも島根が嫌いで、大学進学や就職で関東や関西に出たとおっしゃっていました。田中輝美さんは新卒で島根に帰ってきた当時は、都落ちだと思ってUターンしたのに、「今島根が面白いんだよ!」とおっしゃっていて、原さんも島根県外に出たかったから、東京に出て働いていたのだけど、しまコトアカデミーという講座を受講して島根案外おもしろいって思うようになって島根に帰ってきたとおっしゃっていました。私と同じように島根が嫌いで、大学は県外に進学して外で働いていた人が、わざわざ島根に帰るとか、都落ちだと思って帰ってきた島根が働いてみてすごく面白かったとか、どういう感覚なんだろうと理解できなくて、島根っておもしろいの?なにが?どこが?と、すごく衝撃が走りました。理解出来なさすぎたので、どういうことなんだろう、知りたいと探究したくなってしまったのかもしれません。
また、登壇された4人のお話もすごく面白くて、島根がおもしろいと大学生の頃に知って県職員として働いていますという人や、仕事だけではなく地域にでて活動してたりする人もいて、なんか私がこれまで送ってきた大学生活と真逆の場所で、楽しいと言っている人がいて、「え!?島根おもしろいの!?」という半信半疑ながらも、島根がなぜおもしろいのか気になって実際に自分の目で見てみたいという気持ちになっていきました。この企画があったから、島根っておもしろいのかも、いきいきと働いている人がいるんだ、と島根のイメージが変わっていきました。東京で過ごしていると、電車に乗っているサラリーマンがしんどそうに見えたりとか、バイト先の人も子どもを保育園に預けて延長保育までして走って迎えに行くみたいな働き方をしているということに疑問を持っていたから、余計に、島根で働く大人がそうじゃない前向きな働き方をしているように見えました
ー島根に関わりはじめるきっかけになったのは、原さんと田中さんだったのですね!
そうですね!原さんは、東京来るときとかは声かけてくれたり、次のイベントについての情報を教えてくれたり、個別でお茶したり本当にお世話になりました。こんなに社会人の人がいち大学生である私を気にかけてくれるとか、最近どうなの?と相談に乗ってくださることがすごいありがたかったです。原さんは、こういう大人になりたいと一番最初に思った、私の一番最初のロールモデルでした。
Q.そこからルーツしまねにはどうして関わるようになっていったのですか?
大学2年生の2月頃、原さんに「紹介したいお兄さんたちがいる」と言われて出会ったのが、尾田さんと森山さんでした。尾田さんと森山さんは当時東京と島根でそれぞれ働きながら、島根を卒業した大学生のコミュニティを作りたいんだとおっしゃっていました。自分たちも島根出身で関東の大学に進学して、大学生だった時に出会っていて、この大学や出身市町村を超えた繋がりってすごくいいなと思っていたから、島根というキーワードで繋がれる大学生のコミュニティをつくりたいんだとおっしゃっていました。そのコミュニティの名前を「ルーツしまね」にすることにしたんだけど、一緒にやろうよと言われて、正直何をするのかはよくわかっていなかったけど、とにかく暇だし大学外での繋がりを欲していた時期だったので、2つ返事で「はい!」と答えました。そこから、尾田さん、森山さんを始めその他先輩2名を加えた5人で、月に2〜3回東京駅の近くのカフェに集まるようになって、来年度の5月に島根から関東に上京してきた大学生の歓迎会をやろうという話をして企画をしていました。よくわけも分からずとりあえず「はい!やりたいです!」といっていたら、色んなことが進み始めていきました。
Q.そこから島根の人とのつながりがどんどん増えていったと思うのですが、どういうふうに島根での活動が増えていったのですか?
それでいうと、田中輝美さんと原さんが開催していたイベントで出会った、青山友樹くんと野津直生くんという同世代の子がいて、島根出身で東京の大学にいる者同士、一緒に何かやっていきたいねという話をするようになっていきました。2人も島根でつながる学生コミュニティみたいなのをつくれたらおもしろいよねと言っていたので、ルーツしまねというコミュニティを作ろうとしている人がいるんだよよねという話をして、2人も誘って一緒におもしろい大人の中に混ざって動き始めました。2人とは大学が近かったこともありよく会っていて、2人と一緒に活動を広げていったという感覚でした。2人の存在が大きかったです。
大学3年生の夏、森山さんから電話がかかってきて「高校生が自分のプロジェクトを作っていく(通称、マイプロジェクト)合宿をするんだけど、高校生のサポートをしてほしくて、とりあえず旅費は出すから7月に帰ってきてくれない?」と言われました。友樹と直生と3人で、テスト前だけどどうする?という話をしながら、何をしたらいいかよくわかんないけどタダで島根に帰れるし行ってみる?という下話をして、3人で帰ることにしました。そして島根に帰って合宿の会場に行ってみると、島根出身の大学生が10人くらい集められていました。そこで出会った大学生たちは、私がこれまで出会ったことのないような人ばかりで、いつか地元に貢献したくて地域について学ぶために地域学部にいきましたとか、自分の母校のここがすごいんですよ!と胸を張って話してくれて、こんなに地元が好きだという同世代が島根にいたことがすごく衝撃的でした。
また、大学3年生の夏休み期間は50日間ぐらい島根に帰っていたので、島根で働いている社会人に会いに行っていました。ある日の山陰中央新報の記事で、藤山先生という研究者の方が研究所を立ち上げられたという記事を見つけて、会いたい!と直感的に思い、原さんにご相談して紹介してもらったり、地元企業の人事の方にお会いしたり。島根に帰る前は、そんな長期で島根にいて暇にならないかなと思っていましたが、たくさんの大人の方とお話しする機会をいただいて、とても充実した濃い夏休みを過ごすことができました。
他にもふるさと島根定住財団が東京で開催していた、島根ナイトとか教育ナイトなど、島根在住のゲストと東京で出会えるイベントに参加しました。そこで出会った方に、次帰ってきたら津和野町においでよとか、海士町においでよと言われて、長期休みに実際に会いに行っていました。素敵な人だなと思って、その人に会いに町に行ってみると、今まで知らなかったおもしろい取り組みを知ることができる、そんなことがたくさん起こりました。そう過ごしているうちに、田中輝美さんや原さんが言っておられた「島根がおもしろい」っていうのはこういうことなのか、と腑に落ちていく感覚がありました。いろんなイベントに行って、いろんな人に出会ってから、徐々に「島根がおもしろい」というのが自分の言葉になっていったような気がします。都会では、何かを買いに行ったり、食べに行ったりという遊び方をしていましたが、それよりも島根で人に会いにいくという時間の方が、いつしか楽しくなっていきましたね。
Q.なるほど。そこから休学をするきっかけはなんだったのでしょうか?
一番大きかったのは、さっき話に出たマイプロジェクトの合宿に参加していた高校生との出会いです。合宿には50人くらい高校生がいたのですが、みんな自分の人生に真摯に向き合い、自分の体験や気持ちをちゃんと言葉にしている姿を見て、「私はこんなに真剣に自分の人生を生きれているのかな」と感じました。大学入学までは特に、敷かれたレールの上を、脱線したりしながらも走っていたような気がして、自分の人生を自分で決断するということをしてこなかったし、なんとなく生きてきてしまったなと、悔いる気持ちになりました。だからこれからの人生はちゃんと自分で選択していこう、という気持ちが芽生えたのが一番のきっかけだったと思います。
ちょうどその時、ルーツしまねの活動を一緒にやっていた大脇さんという先輩がおられて、大脇さんは大学を休学して久米島で1年間インターンをしていたという話を聞いていました。そんな選択をしておられた先輩がいらっしゃったので、私も卒業後の選択に真摯に向き合うために休学をしよう、という決断をすることにしました。当時、島根っておもしろいと思うようになった頃で、でも卒業後に島根で働くのか、都会で働くのか、決めきれないでいました。当時周りにいた島根で働く大人は、ほとんどが一度都会で働いてから島根にきたという方だったので、新卒で島根で就職するというイメージが湧かなかったんだと思います。でも新卒で島根で就職するという道を諦めたくなくて休学した、というのが一番の理由でした。
それから、どこでインターンをするかを考えていた時に、雲南のNPO法人おっちラボに行きたいと思って。大学3年生の時に、おっちラボの現代表の小俣さんのお話を聞く機会があって、地域の中で何かをやろうとしている人と一緒に走る、という姿がすごく素敵だなと思ったんです。自分が地域の中でバリバリやる、起業するみたいな人にもたくさん会って来たけど、そういう人たちが生まれる土壌自体を雲南は作ろうとしているということ小俣さんから聞いたんです。チャレンジできる土壌づくりみたいなことってすごく本質的なんじゃないかと思って、その生態系を自分の目で見てみたい、というのが一番の欲求でした。当時おっちラボでは公式のインターンみたいなものがなかったので、直接小俣さんにご連絡し、1年休学してインターンをすることを伝えて、「おっちラボでインターンさせてもらえませんか」とお願いしてみました。そしてご快諾いただいて、インターンすることが決まりました。
そして、大学3年生の2月から1年間、島根に帰ってきました。最初は、週5でおっちラボでインターンをする予定だったのですが、同じオフィスの中にNPO法人カタリバの方々も一緒に働いておられて、休学前からカタリバの方々にはお世話になっていたこともあって、せっかく雲南に来ているし色んなところ見てみたら?と小俣さんからご提案いただいて、週3おっちラボと週2カタリバという感じで、休学中の前半を過ごしました。
インターンをお願いする段階から、いいんですか!そんなのありなんですか!の連続でした(笑)こんなに快く受け入れてくださるんだ、とすごくありがたい気持ちになりました。
ー石倉さんはある意味、ない形をつくってきたんでしょうね!
そうかもしれないですね。みなさんわたしがこうしたい!と思ったことを受け入れてくださって、むしろこうしたら?みたいな提案をたくさんしてくださいました。
おっちラボでは、幸雲南塾やローカルベンチャーラボ合宿の運営のお手伝いをさせてもらいました。県外の様々な地域の方が、視察などで来られることが多かったので、全国各地の取り組みを聞かせていただくことができて、すごくありがたい環境でした。ただ、せっかく休学したのだから他の場所でも働いてみたいという気持ちもありました。6月頃、地域・教育魅力化プラットフォームでアルバイトをする機会があり、そこで代表だった水谷さんに「うちでもインターンしなよ」と言っていただいて、おっちラボは8月いっぱいで区切りをつけさせていただいて、9月からプラットフォームでインターンをさせてもらうことになりました。プラットフォームでは地域みらい留学の参画校を広げていくという業務に関わらせていただきました。
ライター
熱田諒介
ルーツしまね事務局です